移民とその暮らし
オーストラリアにおいて、ジョージ・ヒギンボサムを初めとする人々は、後にビクトリア裁判所で大活躍をすることとなります。
ヒギンボサムは、1854年、28才の時ビクトリアにやって来ました。
彼は弁護士を開業したのと同時に、新聞「アルゴス」の編集にも手を出しました。
その後1860年代にはビクトリア政界入りを果たし、国立学校のしくみを作るにあたり、法制化の領域で欠くことの出来ない重要な役割を演じました。
後年ヒギンボサムは、ビクトリア植民地最高裁判所長となりました。
この間かなりの人数にのぼる女性もオーストラリアにやって来ました。
19世紀イングランドには、中流階級の未婚女性が心惹かれる職業は、非常に職種が限られていました。
家庭教師となって勉強を教えることは、その数少ない仕事の1つでしたが、ここでも就職の口をめぐる争奪戦は熾烈を極めました。
わずかな求人に対し、志願者は殺到したのです。
「クォータリーレビュー」誌によると、
「中産階級の下に属す家庭の一部は、少しでも娘達の生活を向上させようと、彼女達に家庭教師になる為の教育を施している。
このため、あまり育ちの良くない女性が数多く鍵婦人の仲間入りをすることになり、賃金相場を下落させている。」という状態でした。
こうした恵まれない女性達の運命は、マリア・ライの関心を引きました。
ライはロンドンの事務弁護士を父に持ち、9人兄弟の長女として生まれ、この当時独身のまま33才を迎えていました。
ライはしっかりとした経歴を持つ独身女性の援助を目的とした、博愛主義に基く移民協会の先駆けとして、1862年には中産階級女性移民協会の設立に向けて尽力したのです。